そのときの等身大の自分を綴る場です。
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弱さと向き合う
 いつからか自分の弱さを相手にさらけ出すことに対してものすごく抵抗を感じるようになっていた気がする。だから人間関係が表層的なものなっていく。他人に対して勝手に壁を作って勝手に距離を置く。誰とでもそこそこに仲良くなれる性格っていうのは表層的な関係を作ることに慣れていただけなのかもしれない。

いよいよ就職活動も佳境。2月に受けた会社の最終面接でボコボコにされてから自分が何をしたいのかがわからなくなって悶々とし続けた。「君のやりたいことって何?」「それ、本気?」この問いが延々と頭の中をループし続けた。

気付けば夢を語れない自分を卑下して若干自暴自棄になりかけて、でも信頼できる先輩や同期のおかげで少しずつ元気は出た。

そんな中先日ある先輩と話していたときに気付いたことが、自分を完璧に見せようとしすぎているなということ。面接官がこっちの素の部分を引っ張り出そうと必死になってくるのに対して、とにかくその場でロジックをこねくり回して「わかりません」を言わない自分。このへんに自分の弱さを必死に隠して壁を作ろうとする自分の日頃のスタンスが出ていたような気がする。

このことに気付けたのはたぶんその先輩自身が決して器用ではなくても変わろうと必死に努力している人で、かつそんな自分を謙虚に語ることができるから。話していて「あ、自分に足りないのはこういうことなんだな」って気付いたときに日頃の自分の生き方を反省した。

今の自分の弱さを受け入れてそこから必死に変わろうとしている自分を素直に伝えること。
少しずつだけど最近それができるようになってきたと思う。自分を素直に出せるようにもうちょっと頑張ってみよう。


4月からは高校の同期や大学でお世話になって大好きな先輩達が皆それぞれの道を行く。最近は就活に時間をとられてたけど、自分の今までの感謝の気持ちが少しでも伝わっているといいなと思う。本当に本当にありがとうございました。


就活クソヤロウとして

■シューカツ

就活とかマジで茶番、と思っていた。今のところの感想としては特別楽しいわけでもなければ、悪いことばかりでもない。自分について考える上で僕にとっては必要な期間だとは思う。

12月に就職活動が本格的に始まってから1ヶ月ほど鬱々とした気分になった。周囲の声や世間の煽りをついつい気にしてしまった。とにかく動かなきゃいけない気持ちと自分の軸が見えてこずにどう動くべきかわからない狭間でただただ葛藤した。途中考えることからも逃げたくなったし、実際思考停止していた部分はあると思う。

ただこういう状況になってしまった原因を突き詰めていくと、就活の制度に対して文句を言いたくなる部分もあるけど、一方で自分の内面を掘り下げる思考を怠ってきた自分にも原因がある。

自分の場合、「自分が何をやりたいのか?」という思考を掘り下げて具体的な形にしていく作業が今まであまりにも欠けていたんだなぁと痛感する。この作業が自然に出来ている友人もいる。彼らは就活にぶつかってその場で考えるのではなく、自分なりに日頃から自問自答した上で自分の道を決めている。だから時にレールから外れてでも自分のやりたいことをやっていけるんだなってちょっと思った。

もっと自分ありきになってもいい気がする。発想が会社ありきになりすぎていた。勿論自分がやりたいと思ってもそれを必要としてくれる他者がいない分には自分のやりたいことに社会的な価値はない。だから趣味としてやりたいことなのか仕事としてやりたいことなのかはしっかり見極めなきゃいけない。でも、少なくとも22年生きてきた中で自分なりに漠然とだけど抱えている問題意識はある。ただそれを人に話して馬鹿にされるのが怖かった。他人の目を気にして承認欲求に捉われた結果として自分を押し殺している部分があるなら、それはもったいない。もういい加減くだらない虚栄心と承認欲求は捨てて自分に素直になろう。自分のやりたいことを明確にして主体的に就活をしていこう。

2012年の目標は「自分の言葉に嘘をなくす」と「他人に迎合しない」。ちゃんと自分の考えをまわりに流されずに確立していこう。

社会はずっと嫌なイメージばかりがつきまとまっていたけれど、思ったいた以上に寛容な大人がたくさんいる。その人達との出会いが就活においての一番の醍醐味かもしれない。「人はもっと優しいし、世界はもっと豊かだ」この森達也さんの本のタイトルが僕は好きだ。本当にその通りだと思う。もっと素直に自分を出そう。他人の目を気にして態度を変えるのを辞めよう。自分を受け入れてくれる人を大切にしよう。

■自分次第

「結局就活がうまくいくかどうかは自分次第」と言うとそれに対する反論として自己責任論の話が出てくる。何でもかんでも自分の責任って社会はいかがなものかって。たしかにそれは正論。すごく大事な考え方だと思う。

去年ホームレスの方の取材に行ったときに、自己責任について考えさせられた。
人は生まれてくる環境を選ぶことができるわけではない上に、いくら努力しても必ずしも報われるとは限らない。今自分がいる環境を手にする過程において何割が自分の努力で構成されてるだろうか、と考えた。自分で努力してきたと思っていても、生まれた環境と外的な要因、親からの資金援助、人との偶然の出会いなど自分の努力以外の要因がものすごくたくさん存在している。
才能や環境を努力しないことの言い訳にしたくはないけど、必ずシステムから溢れる人がいる。だからそこに対するケアが必要だ。それは間違いない。

ただ僕のケースに限って言えば、高等教育を受け、恵まれた環境でずっと育ってきた。うまくシステムに乗ってぬくぬくと育ってくることができた。だから自分のために自己責任論を振りかざしても、それはただの甘えにすぎない。

今この恵まれた環境で育ってこれた自分を今後何のために使っていくのか、ということを自問すると最終的には目の前にいる人を始めとする他人のため、社会のため、という以前の自分なら嫌悪するであろう結論に今のところ至ってます。そのためには今この現状を自分の力で突破するしかないな、と思うのでしばらくはシューカツクソヤロウとしてもがくしかないかなと思ってます。


ここまで脈絡もなくつらつらと書いてきてちょっとすっきり。精神的にだいぶ感情の揺れ幅が大きい時期なので。久しぶりのブログは一段と自己満足感がマックスですが、2012年もどうぞよろしくお願い致します。

いいものとは何ぞや

僭越ながら自分が春先に編集長として作った冊子「潮騒喫茶」が学生フリーペーパーコンテストStudent Freepaper Forum2011で上位5団体にまさかの入選でした。
http://sff-web.com/nominate.html


SFFは一年生のときに見に行って当時の自分にとっては憧れの舞台。でも、今回入選を知ったときは喜びよりも戸惑いや葛藤の方がずっと大きかった。何でこんなに葛藤しているのか自分でもよくわからなかった。

元々自分のアウトプットに対して自信を持てなかったからなのかもしれない。今回のコンテストも後任のリーダーが出場を決めたとき、勝ち残るのはかなり厳しいだろうなって思った。

正直敵わないと思うフリーペーパーがいくつも思い浮かんだのもあるし、自分の制作物に対して自信を持てていなかったことも大きい。

冊子が出来上がって最初は達成感に浸っていたけど、すぐに反省や後悔が次々と出てきた。「自分の成果物に対してこだわりと責任を持て」って先輩に指摘されたばっかりだったのに、どこかで妥協していた。もっとできたんじゃないかなって気持ちがすごくあった。結局は自分が作ったものに対して自信を持てなかったことが葛藤した原因としては大きかったのかもしれない。

今の自分にとっては冊子製作は過去の終わったことだけど、思い出として美化できるフェーズにはまだ入ってないなんだなぁと今回実感した。


振り返ってみるとあの状況でよくやり切れたな、とは思う。
3.11で日本中が動揺している中でメンバーが皆帰省したり連絡がとれなくなっても、副編集長と2人だけで毎晩スカイプ会議を続けてとにかく作った。結果としてギリギリで期限に間に合って完成させることはできた。あのときの環境と気が滅入りそうな精神状態でよくやりきったよなって思う。

ただあのときの自分の行動が正しかったのか今でも疑問に思う。震災のことを考えればあのとき自分は東京でフリーペーパーなんか作ってる場合じゃなかったんじゃないのか。もっとやらなきゃいけないことがったんじゃないのかって思えてならない。帰省して安全な場所に行くこと、ボランティアに駆けつけること、家族に会いに行くこと、メンバーがとった行動の方が人としてずっと大事なことだと思う。

リーダーとしての責任。そう言えば聞こえはいい。でも、結局いつもしんどいときの原動力になるのは負け犬呼ばわりされたくないっていうくだらない虚栄心や人間関係のコンプレックスからくる承認欲求のようなもの。最初に掲げた綺麗なビジョンよりも追い込まれたときに自分を突き動かすのはそういうくだらない気持ちが大きいような気もする。

何より完成させることだけ考えて動き続けた結果として自分の能力不足と環境的な要因でチームを空中分解に近い状態にさせてしまった。

やり切った自分は褒めてあげたいけど、そもそもあのときにやることが正しかったのか疑問が残るし、自分のやり方には問題だらけだったことを考えると複雑な気持ちになる。それに人数が減ったこともあって冊子を通してやるべきだったこともあまりできなかった。

SFFの審査員の人達から自分が作ったものが評価されたことはすごく嬉しい。でも結局自分は冊子を通して何も成し遂げることができなかった。

作り手が認めてほしい人に認められなくても、別の人に認められればそれって価値があるっていえるんだろうか。わからない。いいものって何だろう。

いいものって自分がいいと思うもの?自分がいいと思ってなくても他人から認められるもの?それとも両方揃って言えるもの?絶対的な良さってあるんだろうか。物事は常に立体的に捉えない限り本質は見えてこない。だから一面的に見てどうこう論じてもあまり意味はないんだろうけど、これを機に良さって何かを考え続けていきたいな。


と、ここまで振り返りながらつらつらと書いてきたものの、もう既に活動を引退した身としては今回の入選がきっかけで後輩達の活動の認知やメンバー募集の役に立てたならそれはすごく嬉しい。

作った側としての複雑な気持ちと後輩に頑張ってほしい気持ちと両方が混じったような気持ちを抱きながら27日の決勝プレゼンは応援に行ってきます。

22歳のクソガキ

先日、22歳になりました。
メールをくれたりツイッターやフェイスブックでおめでとうのメッセージをくれた方々、本当にありがとうございます。

22歳になったからといって特別何が変わるということもなく、世間の流れの中で僕は散々嫌っていた就職活動を徐々に始め、ずっとお世話になってきた学生団体を引退し、どうしようもない万年中二病だけを残しながら社会人に近づいていこうとしています。

相変わらず自分の軸が見えずにブレまくってるし、周りの人にも迷惑かけてばかりのどうしようもない人間です。ただどんな状況であろうと自分なりの青臭さは持っていたいし、それが傍から見たら滑稽なものでも日々もがきながら22歳の一年を楽しでいきたいなぁと思ってます。


目先のこととして、やっぱりしばらくの課題は就職活動。と思って少し焦ったりしたのですが、自己分析が今の自分にとっては足りないことであり、大事なことだと痛感してる日々だったりします。以前書いたようにわかったつもりで何もわかっていなかった。

このブログのリンクに貼ってある僕の大好きな人達は皆自分のことをじっくりと見極めた上で一本の軸を見出してそれを自分の言葉で語れるのが共通してる点なんだなぁとこの前久しぶりに相談にのっていただいた
ericoさんと話しているときにふと思って、それが今の自分ができていないことなんだと気付いた。

最近の「前に進んでいない感」「止まっている感」の原因って要はそこだったんだな、と。軸が定まらずにあれこれやってみたところで結局は空回りするだけ。最近の自分は地に足がつかずに足元が見えてなかったことを自覚ときに、今まで大事にしてるつもりだった「地に足をつけること」「自道を地道に」「たとえ地味でも地道にコツコツと積み重ねる」といったことが気付けば口先だけになっていたことを痛感してなんとも情けなく感じた。

今少しだけ立ち止まって自分の内面を少し掘り下げて考えてみたいなって思ってます。いろいろと知り合いの方には意見を求めると思いますが、是非相手にしてもらえると嬉しいです。

22歳の一年で飛躍するために、しばらく助走をつけてみようと思います。

相変わらずダメっぷりが爆発しているこの22歳のクソガキですが、これからもどうぞよろしくお願い致します。

一人称を大事に。

頭の中がごちゃごちゃしたまま、いまいちすっきりしない中で新学期が始まった。9月はいいこともイヤなことも、嬉しいことも悲しいこともいろんなことがあった月で、自分の中で内省する時間が割りと多かったような気がする。

自分がどこに向かってるんだろっていう漠然とした不安と今の自分ならどうにでもなるだろっていう根拠のない自信が混在したような、よくわからない精神的な状態のまま日々を過ごしてる感じ。

10月はたぶん自分にとっての一つの過渡期になる気がする。1年生のときからお世話になってきた団体を引退して離れるし、去年からお世話になってきた演習も後期からはなくなって、これからは授業や単位の枠を超えて自分の任意での勉強が多くなる。シューカツもぼちぼちやっていく。

とはいったものの、特別行きたい会社があるわけでもなく、でも一応ちゃんと「働く」ってことには向き合って将来については考えていきたい。まだまだ自分のことが全然わかってないんだなって友達のブログを読んでてさっき思った。

友人からは「自分のこと俯瞰してとらえることができてるね」って言われたりすることがたまにあって自分でもそうだと思ってたけど、冷静に考えてみると自分のことって知ってるようで全然知らないんだなって最近ふと思ったりした。もっと自分と向き合う時間を増やさないといけないし、人と話す中で自分の輪郭をもっとつかんでいく時間も大事だなぁって思う。

ただ最近ちょっと思ったのが、自分って本当に自分中心主義だな、と。社会とか世界のために頑張れる人をすごいなと思ってもときどきどこか違うなって感じてしまうのは、今の自分が「こういった社会を作りたい」「世界のために○○を成し遂げたい」とか自分が言っても自分でものすごく陳腐に感じて言葉が軽くなってしまうから。口で語ることができても背中で示すことが今の自分にはできない。今まで環境に恵まれてきて、人のためじゃなくて人のおかげで頑張ってこれた人間だからなのかもしれない。どこかで恩返しをするなり次につなぐなりしていこうとは思ってるものの、自分中心の今の状況からはなかなか脱却できる気がしない。

でも
以前読んだ本でちょっと気になった言葉があって、「一人称の主語を失った善意や優しさが世の中をおかしな方向に導いていく」ってこと。自分の文脈を省いて社会云々って語ったところでその言葉は薄っぺらいものにすぎないし、聞いていても何も共感しない。でも言ってる当人はなんとなく気持ちよく感じてしまうもの。その気持ちよさに浸る人が多数派になったときに人間の感覚が麻痺しておかしいものをおかしいと思えずに思考が停止して社会がおかしな方向に進んでいく。この趣旨はすごくわかる気がして、あくまでも自分の語る言葉にちゃんと当事者意識を持っていたい。

今の自分なりに疑問に思うことだったり許せないこと、なんとなく掘り下げて知りたいことはあるけど、あくまでも「なんとなく」っていう漠然とした感覚に過ぎない。だから「こういう社会にしたいです」みたいなご立派なビジョンは特にない。でも、いわゆるシューカツなんかだと夢だとか目指す理想を聞かれるする中で、中途半端な気持ちで大して思ってもないことを話すのは今の自分にはきっと苦痛でしかないんだろうなぁーと思う。やっぱりどんなときでも自分の文脈で自分なりの言葉で語れる人間でありたい。

いつも入り口は好奇心でいいと思ってきたし、何のため、誰のためってのは後付けでいいじゃんって思ってきたから、立派なビジョンや夢を持っている人にはなんだかコンプレックスを抱いてしまったりもする。ただ、それでもあくまでもそのときの自分の感性や直感で面白いと思ったものをやるってスタンスは持ち続けたいし、そういう自分を否定したくもない。

何が言いたかったのか全くわかんなくなってしまったけど、僕の場合は「好きなことをやる」っていうとこを抜かしてあれこれ考えても、今の自分じゃ人に「自分のことを自分の言葉で語る」ことはできないんだろうなって思うわけです。

それはこの前久しぶりに会って話した父親だったり、相談に乗ってくれた先輩と話していて感じたことでもあって、2人とも「自分」っていう一人称の主語を大事にしているんだなって思った。あくまでも自分の好きなことをやりながら結果として人のためになるような循環を自分で作っていくのが今の自分には合ってるスタイルなのかもしれない。

最近ぐだぐだ日々を過ごす中で考えてるようで何も考えてないことに気付いたんで、ちゃんと足を動かして人の話を聞きにいったり、時間を確保して本を読んだりする中でもっと自分の認識を深めていきます。