そのときの等身大の自分を綴る場です。
<< November 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

岐路に立つ
今のままでいいんだろうかー。漠然とした疑問や不安を抱えているのにどうしても日常に流されてしまう。今の職種で仕事を続けながら私生活もある程度両立するためにどうすべきか。現状で思いつく中からベターな答えは見えてきた。少しずつでも時間を作って具体的な行動を淡々と進めよう。入社したときは考えなかったけれど、転職に向けて動き出そうと思います。
原点に戻るための仕組み
気づけば最後の更新から1年以上。何気なく日々を過ごす中で、少しずつ会社の価値観に流されている。大学時代にお世話になった人から連絡をもらったのを機に、懐かしくなって学生時代のブログやインタビュー記事を読み漁ってみた。忘れかけていた大事なことがぎゅっと詰まっていて、当時の自分は今の自分を見たらきっと情けなく感じるんだろうなあと思いました。

この1年半、頑張っているつもりで実は惰性に流され、思考することから随分逃げてきました。漠然と流されていくのは楽なもので、やっぱり自分は意志の弱い人間だなあと思う。だからこそ自分を原点に戻す仕組みと習慣が必要で、不器用でも自分の言葉を紡いでいく作業は大事だと痛感しました。もう忘れ去られたブログだと思うけど、少しでも何かを綴ることで考えることから逃げずにいたいと思います。
ブログを通して
 「卒業」という言葉が身近なものになってきた。4月から新たな土地での生活が始まる。最近は引っ越しの準備や家族との団らん、家でぼーっと考え事をするような時間を大事にしながら卒業までに会っておきたい人とたまに会うまったりした日々を過ごしています。

大学時代にお世話になった先輩、何度も飲みに行った友人、一緒に活動をした仲間、会っておきたい人は数多くいる。そうした中で、個々人との出会いがどんなものだったかを思い出すとブログがきっかけになった人が数人いる。

受験生のときに今通っている学部の先輩のブログを見つけてコメントしたのがきっかけになったり、自分のブログにコメントをくれたのがきっかけになったケースもある。後々になって考えてみると所属するクラスタや共通の知人が複数いたわけで、ブログをやってなくても出会うべくして出会っていたような気もする。

ただブログを通して相手の価値観の一側面にわずかながら触れることができたからこそ実現した関係もきっとあると思う。ここ数年でツイッターやフェイスブックが流行ったことで知人のブログの書き込み頻度がだいぶ下がったし、僕自身も最近は放置していた。そんな自分が言うのもおかしな話だけど、ツイッターやフェイスブックよりもブログの方がなんとなく好きだったりする。

SNSはコミュニケーションのツールとしての側面が強い分、どうしてもそこで表現する自分が「こうありたい自分」になりがちで、そんな承認欲求でフェイスブック上は溢れかえっているように感じる。それに対して良い悪いを言う気はないし、ブログを書く際にも表現欲や承認欲求なんかの欲望はもちろんある。ただ、個人的には知人のブログを読むのは一人で綴っている日記をこっそり見させてもらうような感覚がある。(少しでも多くの人に読んでもらうことを目的としたブログは別として)。だからちょっとした本音が垣間見えるような感覚があるし、単純な承認欲とは別になんとなく書き留めておきたい気持ちや多数の人には読まれたくないけど一部の誰かには読んでもらいたいというメッセージを感じることもある。

僕自身がどれだけ自分の価値観をブログで表現できていたかはわからないし、それが伝わっていたかはもっとわからないけど、表面上の付き合いだけでは決してわからないような相手の価値観がわかっているからこそ話せたこと、相談できたこともあった。それによって救われたこともある。だからブログを通してできたつながりにはすごく感謝している。

フェイスブックの「いいね」や「友達」の数を意味するソーシャルメディア上のかっこつきの「つながり」、3.11後に声高に叫ばれた「絆」、就活で散々聞かされた「人脈」、どれも自分には正直しっくりこなかったし、何でもかんでもつながればOKという風潮に正直うんざりしている部分すらあった。だからしばらくは「つながり」という言葉を使うことも避けてきたし、セミナーや交流会の誘いを受けてもほとんど足を運ばなかった。でも、最近は「ああ、あの人とはブログがちょっとしたきっかけで出会うことになったんだ」と思い出す機会があると「つながり」という言葉を肯定的に捉えることができる。それは僕が知り合った人がつながって良かったと心から思える人だからなんだと思う。

親しい人たちとも社会に出たら少しずつ、でも確実に遠くなっていくと思う。一年先に社会人になった友達と会話が合わなくなってきたことは嫌でも感じる。自分も環境が変わるとそう思われる対象にきっとなっていく。だけど、細々とした関係になっても互いに学生時代の等身大の価値観をわずかでも共有することができたこの縁はずっと大事にしていきたいなあと卒業を前にして改めて思ってます。


ストーリー

就活を中心にストーリーベースで語ることが絶対視されすぎているように感じる。面接で「何故そう思うのか」という問いに対してやたらと物語を求めてくる。自分の主張と過去のストーリーを強引にこじつけて話せばすぐに相手に納得される。でも所詮はこじつけに過ぎないし、自分の本音とは少し違う。
就活の面接を突破するため、また日常のコミュニケーションで相手に自分の主張を納得してもらうためにストーリーを使って語ることは大事なことかもしれない。でもそのために物語のネタを必死に探して消費している姿は傍から見ると滑稽だ。

自分のモチベーションに明確な原体験がある人はそれでいいと思う。わかりやすい明確な一本の軸があるのはいいことだと思う。でも全ての人がそうじゃない。日常のさまざまな場面で受けた刺激や感動が蓄積されることで出来上がった感覚がある。それが自分の動機や原動力になる人もいる。

物事を単純化して伝えることが重要視されすぎているように感じる。わかりやすく伝えることは大事なスキルだし、そのニーズが絶えることはないと思う。「君、話わかりやすいね」と言われることが増えてから面接で落ちることはほとんどなくなった。一方、複雑なままじゃないと伝えられない人間の感情もある。そのことを忘れて単純化ばかりを繰り返していくと自分の感性が失われていく気がする。

弱さと向き合う
 いつからか自分の弱さを相手にさらけ出すことに対してものすごく抵抗を感じるようになっていた気がする。だから人間関係が表層的なものなっていく。他人に対して勝手に壁を作って勝手に距離を置く。誰とでもそこそこに仲良くなれる性格っていうのは表層的な関係を作ることに慣れていただけなのかもしれない。

いよいよ就職活動も佳境。2月に受けた会社の最終面接でボコボコにされてから自分が何をしたいのかがわからなくなって悶々とし続けた。「君のやりたいことって何?」「それ、本気?」この問いが延々と頭の中をループし続けた。

気付けば夢を語れない自分を卑下して若干自暴自棄になりかけて、でも信頼できる先輩や同期のおかげで少しずつ元気は出た。

そんな中先日ある先輩と話していたときに気付いたことが、自分を完璧に見せようとしすぎているなということ。面接官がこっちの素の部分を引っ張り出そうと必死になってくるのに対して、とにかくその場でロジックをこねくり回して「わかりません」を言わない自分。このへんに自分の弱さを必死に隠して壁を作ろうとする自分の日頃のスタンスが出ていたような気がする。

このことに気付けたのはたぶんその先輩自身が決して器用ではなくても変わろうと必死に努力している人で、かつそんな自分を謙虚に語ることができるから。話していて「あ、自分に足りないのはこういうことなんだな」って気付いたときに日頃の自分の生き方を反省した。

今の自分の弱さを受け入れてそこから必死に変わろうとしている自分を素直に伝えること。
少しずつだけど最近それができるようになってきたと思う。自分を素直に出せるようにもうちょっと頑張ってみよう。


4月からは高校の同期や大学でお世話になって大好きな先輩達が皆それぞれの道を行く。最近は就活に時間をとられてたけど、自分の今までの感謝の気持ちが少しでも伝わっているといいなと思う。本当に本当にありがとうございました。


就活クソヤロウとして

■シューカツ

就活とかマジで茶番、と思っていた。今のところの感想としては特別楽しいわけでもなければ、悪いことばかりでもない。自分について考える上で僕にとっては必要な期間だとは思う。

12月に就職活動が本格的に始まってから1ヶ月ほど鬱々とした気分になった。周囲の声や世間の煽りをついつい気にしてしまった。とにかく動かなきゃいけない気持ちと自分の軸が見えてこずにどう動くべきかわからない狭間でただただ葛藤した。途中考えることからも逃げたくなったし、実際思考停止していた部分はあると思う。

ただこういう状況になってしまった原因を突き詰めていくと、就活の制度に対して文句を言いたくなる部分もあるけど、一方で自分の内面を掘り下げる思考を怠ってきた自分にも原因がある。

自分の場合、「自分が何をやりたいのか?」という思考を掘り下げて具体的な形にしていく作業が今まであまりにも欠けていたんだなぁと痛感する。この作業が自然に出来ている友人もいる。彼らは就活にぶつかってその場で考えるのではなく、自分なりに日頃から自問自答した上で自分の道を決めている。だから時にレールから外れてでも自分のやりたいことをやっていけるんだなってちょっと思った。

もっと自分ありきになってもいい気がする。発想が会社ありきになりすぎていた。勿論自分がやりたいと思ってもそれを必要としてくれる他者がいない分には自分のやりたいことに社会的な価値はない。だから趣味としてやりたいことなのか仕事としてやりたいことなのかはしっかり見極めなきゃいけない。でも、少なくとも22年生きてきた中で自分なりに漠然とだけど抱えている問題意識はある。ただそれを人に話して馬鹿にされるのが怖かった。他人の目を気にして承認欲求に捉われた結果として自分を押し殺している部分があるなら、それはもったいない。もういい加減くだらない虚栄心と承認欲求は捨てて自分に素直になろう。自分のやりたいことを明確にして主体的に就活をしていこう。

2012年の目標は「自分の言葉に嘘をなくす」と「他人に迎合しない」。ちゃんと自分の考えをまわりに流されずに確立していこう。

社会はずっと嫌なイメージばかりがつきまとまっていたけれど、思ったいた以上に寛容な大人がたくさんいる。その人達との出会いが就活においての一番の醍醐味かもしれない。「人はもっと優しいし、世界はもっと豊かだ」この森達也さんの本のタイトルが僕は好きだ。本当にその通りだと思う。もっと素直に自分を出そう。他人の目を気にして態度を変えるのを辞めよう。自分を受け入れてくれる人を大切にしよう。

■自分次第

「結局就活がうまくいくかどうかは自分次第」と言うとそれに対する反論として自己責任論の話が出てくる。何でもかんでも自分の責任って社会はいかがなものかって。たしかにそれは正論。すごく大事な考え方だと思う。

去年ホームレスの方の取材に行ったときに、自己責任について考えさせられた。
人は生まれてくる環境を選ぶことができるわけではない上に、いくら努力しても必ずしも報われるとは限らない。今自分がいる環境を手にする過程において何割が自分の努力で構成されてるだろうか、と考えた。自分で努力してきたと思っていても、生まれた環境と外的な要因、親からの資金援助、人との偶然の出会いなど自分の努力以外の要因がものすごくたくさん存在している。
才能や環境を努力しないことの言い訳にしたくはないけど、必ずシステムから溢れる人がいる。だからそこに対するケアが必要だ。それは間違いない。

ただ僕のケースに限って言えば、高等教育を受け、恵まれた環境でずっと育ってきた。うまくシステムに乗ってぬくぬくと育ってくることができた。だから自分のために自己責任論を振りかざしても、それはただの甘えにすぎない。

今この恵まれた環境で育ってこれた自分を今後何のために使っていくのか、ということを自問すると最終的には目の前にいる人を始めとする他人のため、社会のため、という以前の自分なら嫌悪するであろう結論に今のところ至ってます。そのためには今この現状を自分の力で突破するしかないな、と思うのでしばらくはシューカツクソヤロウとしてもがくしかないかなと思ってます。


ここまで脈絡もなくつらつらと書いてきてちょっとすっきり。精神的にだいぶ感情の揺れ幅が大きい時期なので。久しぶりのブログは一段と自己満足感がマックスですが、2012年もどうぞよろしくお願い致します。

22歳のクソガキ

先日、22歳になりました。
メールをくれたりツイッターやフェイスブックでおめでとうのメッセージをくれた方々、本当にありがとうございます。

22歳になったからといって特別何が変わるということもなく、世間の流れの中で僕は散々嫌っていた就職活動を徐々に始め、ずっとお世話になってきた学生団体を引退し、どうしようもない万年中二病だけを残しながら社会人に近づいていこうとしています。

相変わらず自分の軸が見えずにブレまくってるし、周りの人にも迷惑かけてばかりのどうしようもない人間です。ただどんな状況であろうと自分なりの青臭さは持っていたいし、それが傍から見たら滑稽なものでも日々もがきながら22歳の一年を楽しでいきたいなぁと思ってます。


目先のこととして、やっぱりしばらくの課題は就職活動。と思って少し焦ったりしたのですが、自己分析が今の自分にとっては足りないことであり、大事なことだと痛感してる日々だったりします。以前書いたようにわかったつもりで何もわかっていなかった。

このブログのリンクに貼ってある僕の大好きな人達は皆自分のことをじっくりと見極めた上で一本の軸を見出してそれを自分の言葉で語れるのが共通してる点なんだなぁとこの前久しぶりに相談にのっていただいた
ericoさんと話しているときにふと思って、それが今の自分ができていないことなんだと気付いた。

最近の「前に進んでいない感」「止まっている感」の原因って要はそこだったんだな、と。軸が定まらずにあれこれやってみたところで結局は空回りするだけ。最近の自分は地に足がつかずに足元が見えてなかったことを自覚ときに、今まで大事にしてるつもりだった「地に足をつけること」「自道を地道に」「たとえ地味でも地道にコツコツと積み重ねる」といったことが気付けば口先だけになっていたことを痛感してなんとも情けなく感じた。

今少しだけ立ち止まって自分の内面を少し掘り下げて考えてみたいなって思ってます。いろいろと知り合いの方には意見を求めると思いますが、是非相手にしてもらえると嬉しいです。

22歳の一年で飛躍するために、しばらく助走をつけてみようと思います。

相変わらずダメっぷりが爆発しているこの22歳のクソガキですが、これからもどうぞよろしくお願い致します。

一人称を大事に。

頭の中がごちゃごちゃしたまま、いまいちすっきりしない中で新学期が始まった。9月はいいこともイヤなことも、嬉しいことも悲しいこともいろんなことがあった月で、自分の中で内省する時間が割りと多かったような気がする。

自分がどこに向かってるんだろっていう漠然とした不安と今の自分ならどうにでもなるだろっていう根拠のない自信が混在したような、よくわからない精神的な状態のまま日々を過ごしてる感じ。

10月はたぶん自分にとっての一つの過渡期になる気がする。1年生のときからお世話になってきた団体を引退して離れるし、去年からお世話になってきた演習も後期からはなくなって、これからは授業や単位の枠を超えて自分の任意での勉強が多くなる。シューカツもぼちぼちやっていく。

とはいったものの、特別行きたい会社があるわけでもなく、でも一応ちゃんと「働く」ってことには向き合って将来については考えていきたい。まだまだ自分のことが全然わかってないんだなって友達のブログを読んでてさっき思った。

友人からは「自分のこと俯瞰してとらえることができてるね」って言われたりすることがたまにあって自分でもそうだと思ってたけど、冷静に考えてみると自分のことって知ってるようで全然知らないんだなって最近ふと思ったりした。もっと自分と向き合う時間を増やさないといけないし、人と話す中で自分の輪郭をもっとつかんでいく時間も大事だなぁって思う。

ただ最近ちょっと思ったのが、自分って本当に自分中心主義だな、と。社会とか世界のために頑張れる人をすごいなと思ってもときどきどこか違うなって感じてしまうのは、今の自分が「こういった社会を作りたい」「世界のために○○を成し遂げたい」とか自分が言っても自分でものすごく陳腐に感じて言葉が軽くなってしまうから。口で語ることができても背中で示すことが今の自分にはできない。今まで環境に恵まれてきて、人のためじゃなくて人のおかげで頑張ってこれた人間だからなのかもしれない。どこかで恩返しをするなり次につなぐなりしていこうとは思ってるものの、自分中心の今の状況からはなかなか脱却できる気がしない。

でも
以前読んだ本でちょっと気になった言葉があって、「一人称の主語を失った善意や優しさが世の中をおかしな方向に導いていく」ってこと。自分の文脈を省いて社会云々って語ったところでその言葉は薄っぺらいものにすぎないし、聞いていても何も共感しない。でも言ってる当人はなんとなく気持ちよく感じてしまうもの。その気持ちよさに浸る人が多数派になったときに人間の感覚が麻痺しておかしいものをおかしいと思えずに思考が停止して社会がおかしな方向に進んでいく。この趣旨はすごくわかる気がして、あくまでも自分の語る言葉にちゃんと当事者意識を持っていたい。

今の自分なりに疑問に思うことだったり許せないこと、なんとなく掘り下げて知りたいことはあるけど、あくまでも「なんとなく」っていう漠然とした感覚に過ぎない。だから「こういう社会にしたいです」みたいなご立派なビジョンは特にない。でも、いわゆるシューカツなんかだと夢だとか目指す理想を聞かれるする中で、中途半端な気持ちで大して思ってもないことを話すのは今の自分にはきっと苦痛でしかないんだろうなぁーと思う。やっぱりどんなときでも自分の文脈で自分なりの言葉で語れる人間でありたい。

いつも入り口は好奇心でいいと思ってきたし、何のため、誰のためってのは後付けでいいじゃんって思ってきたから、立派なビジョンや夢を持っている人にはなんだかコンプレックスを抱いてしまったりもする。ただ、それでもあくまでもそのときの自分の感性や直感で面白いと思ったものをやるってスタンスは持ち続けたいし、そういう自分を否定したくもない。

何が言いたかったのか全くわかんなくなってしまったけど、僕の場合は「好きなことをやる」っていうとこを抜かしてあれこれ考えても、今の自分じゃ人に「自分のことを自分の言葉で語る」ことはできないんだろうなって思うわけです。

それはこの前久しぶりに会って話した父親だったり、相談に乗ってくれた先輩と話していて感じたことでもあって、2人とも「自分」っていう一人称の主語を大事にしているんだなって思った。あくまでも自分の好きなことをやりながら結果として人のためになるような循環を自分で作っていくのが今の自分には合ってるスタイルなのかもしれない。

最近ぐだぐだ日々を過ごす中で考えてるようで何も考えてないことに気付いたんで、ちゃんと足を動かして人の話を聞きにいったり、時間を確保して本を読んだりする中でもっと自分の認識を深めていきます。

自道を地道に行くこと

先日久しぶりに親友と飲んできた。

ちょうど知り合ったのが一年前で同じ学部の彼とは何故かやたらと気が合ってそれ以来節目節目で会ってよく語る。


ここ最近インターンを中心にいろいろと考えさせられた。行って本当に良かったとは思う。学問の机上の理論と現実のギャップを目で見て肌で感じた。「こんな上司のもとで働けたらいいな」って思えるかっこいい大人にも会えた。本当に1人1人の個人が魅力的な人が集まっていて素敵な職場だなって思った。

一方で、「働く」ということについて考えたときに自分が激務な日々に耐えられるのかを考えたり、本当に好きじゃなきゃやっていけない世界だなって思ったときに自分はやっていけるのか?って不安になったりもした。結局2週間いろいろ考えたけど、将来に関して何も答えなんて出なかった。ただ、すごく大好きになった記者の人に最後に「答えを見つけないっていう答えもあるよ」って言われてなんだか少しだけ救われた。

結局のところジャーナリズムの世界でやっていくことも、他の業界に入ってやっていくことも、これから社会に出て自分が生きていくってことは常に「葛藤」を続けていくっていうことが本質な気がする。その葛藤をなくした瞬間に人は思考停止に陥るし無意識的に少しずつ組織に迎合して、個人としての自分から会社員としての自分になりきってしまうんじゃないかと思う。それ自体は悪いことじゃないし、場合によってはそっちの方が気が楽で人生楽しいのかもしれないから否定するつもりはない。でも、僕はそうはなりたくないし、自分の性質的な部分を考えると万年中二病はもはやどうにもならない気がするから「葛藤」は必ずしてしまう気がする。だからそんな自分を否定せずに受け入れてやっていきたい。とか思ったりした。

たまたまインターンで行った会社がいい意味で「青くさい」人達が多い環境だったこともあって、会社に自分が入った時にいかに日々の業務に追われて我を失うか、それでも自分の中での理想との間でもがくことについて話を聞かせてもらえた。結局のところ自分なりの理想がないならそもそもその会社に行く意味はないから若いうちにどれだけ青くさいこと語ってきたかも大事だとのこと。それを聞いて今の自分が青くさい理想を掲げて机上で理論をこねくり回したり、現場に足を運んでそこで感じた自分の純粋な感性をもっと大事にしていいんだなって思えたのは大きかった気がする。

そんな意味で、いろいろ気付きはあったりしたものの久しぶりにあった彼と話して、なんだか自分は焦って少し無理をしていやしないかとふと思った。

一年前初めて彼と飲んだあとに、
彼が自分のブログで書いてくれた記事を読み直してみた。


自道を地道に。


当時この言葉に何よりも共感したし、ついつい人に影響されたり、他人と自分を比較しがちな自分を何度も原点に戻してくれた。

その言葉を今改めて考えたとき、今の自分は就活で内定を何個ももらった優秀な先輩や自分にない価値観や感受性を持っている人と自分を比較ばかりして焦って自分を見失いつつあった。他人を見て参考にしたり、人のふりみて我ふり直せってスタンスは大事だけど、比較したところでどうにもならない。そんな当たり前のこともなんとなくわかった気になって思考が停止していた。

「シューカツ」という言葉に踊らされて、気付けば就活市場の奴隷みたいな存在になるのが嫌で、でも受け入れなきゃいけない現実の中でやっていかなきゃいけない自分に、今の等身大の自分を思い出させるために就活に取り組む自分を「就活クソヤロウ」と定義したはいいけど、(言葉は尊敬する先輩の受け売り笑)結局気付けば他人と比較して焦っていた。

自分の道で地道にどんな地味で泥臭いことでもコツコツ自分のやるべきことを重ねていくことでしか結局は前に進めない。それを改めて肝に銘じてやってかないとたぶん自分は結局何がしたいのかわからなくなって気付けば取り残された存在になっている気がする。


人はすぐに無意識のうちに思考が麻痺していく。だから今の自分を原点に戻してくれる人を大事にしなきゃいけないんだ。これからいろんな情報が入ってくるからこそ、今の等身大の自分を大事にしていきたいし、お互いに間違った道に行こうとしているときに厳しく言える存在が本当に大切だと思う。一年前に彼と出会ったのが偶然だったか必然だったかはわからないけど、本当にいい出会いに恵まれたなって思います。



 

雑記

■一区切りがついた

自分の団体の活動で代表としての仕事が8月7日のイベントをもって一区切りがついた。あと二ヶ月は後輩への引継ぎに力をいれていきます。正直やってみて思ったことは、想像以上にしんどい部分が大きかった。「リーダーや代表としての大変さ/辛さは経験した人にしかわからない」って去年小さなチームのリーダーをやっていたときに少し思ってたけど、今はその言葉を当時の自分に言ってやりたい。自分は何にもわかってなかったし、今でもまだまだ何もわかってない。本当に上に立つ人ってのはとんでもない責任とプレッシャー抱えながらやってんだろうなって想像がほんのちょっとだけできるようになったに過ぎない。

こんな小規模な学生組織でも場合によっては自分を押し殺すこと、ひたすら調整に追われて自分の主体性とか関係ない状態で事務的にただひたすらこなす日も少なくなかったし、そこに何の意味があるんだろうって悶々とするようなこともあった。

よく「人を大事にしない会社はダメだ」なんて聞くし、本当にその通りだと思う。だけど、自分の仲間や後輩を大切にするって当たり前だと思っていたのに自分には思っていた以上に難しかった。日々の雑務の中で大事なことをどんどん忘れていったし、過去のブログとか読み返してみると、去年の自分の方がよっぽど純粋に活動を楽しんで、大好きな仲間を大事にして地道に頑張って取り組んでたんだなって感じが伝わってきて人間味を感じる。

でも、こんなことを思えるのも、今年は人数規模が大きくなった中でのマネジメントをある程度の部分までやりきったからなのかもしれない。今になってみてやっと少し俯瞰して自分を見れるようになった気がする。やってる最中は必死だったし、冷静に組織全体を見渡していても、自分を一歩離れた視点から見る機会が極端に減っていた気がする。

7日で区切りがついて、やっと落ち着いたときに先輩に言ってもらった「よくやったね」って言葉がすごく響いて久しぶりにほっとして少し涙が出た。そういえば、この先輩に憧れて入ったからこの団体での活動を同期が全員いなくなっても続けてきたんだよなぁって思い出してなんとも感慨深い感覚にもなったりした。この縁には本当に感謝したい。

正直自分の能力とキャパがあまりにもなさすぎて自分個人としては、上記のことを含め本当に多くのことを学べた一方で「団体として発展させて次につなげる」って部分に関しては、自分の代で達成できたことはすごく少ないんじゃないかと思う。それでも、いくつかの失敗例も反面教師として後輩たちが生かしてくれたら、もっともっといい団体になれるんじゃないかと思うし、そうなってくれたら嬉しい。


■実家にて

久しぶりに神奈川の祖母宅に行ってきた。本当に田舎で静かだし、庭で栽培している野菜がおいしいし、朝起きたら庭の井戸水で顔を洗うのも好きで本当に居心地がいい。毎日早寝早起きの生活で健康的な食生活も送れた。

つい先日友達が言っていた「世の中もっとシンプルでいいんじゃないか」って言葉が刺さっていたのは何でだろうって考えてみると、ここでの生活が自分の根にあるからなのかなって思った。ここにいると普段やっているジャーナリズム、社会企業、教育システム云々って話が非現実的に感じられるし、そんなもんなくてもいいんじゃないかとすら思えてくる。

本来人はもっとシンプルな生活の中で自分達なりの幸せを見出して、自分の身近な部分を大事にしながらコツコツ地道に生活をできていたんだろうし、そういう生活の中だと必然的に人として大切なことがわかってたのかもしれない。あのとき友達が言いたかったことって要はそういうことなのかなって思うとなんだか腑に落ちて、今の複雑になりすぎた社会って何なんだろうって思ったりもしたし、普段自分がいかにも勉強してますって気取って議論したりしてるようなことが何ともくだらなく思ってしまった。また都内に戻ると元の感覚に戻るんだろうけど、こういう時間に感じる感覚は大事にしたい。


■これからの話

今後どうするか、と言われると9月以降はまったく計画がない。就活はする予定だし、リレーのインタビュー企画もまだもう少しだけ参加する。あとは8月の下旬〜9月上旬にかけて新聞社にインターンにいくことしか決まってない。自分の中で一度は固まったと思った進路も最近は混迷を極める一方。どうする自分。

とりあえずやるべきこととしては、オトナに会う機会を増やす、少しでも多くの多様な価値観に触れる、自分なりの長期的なビジョンを言葉にする。あとは友達と語る機会と一人で考える時間をしっかり確保していくこと。何より自分の中での長期的なビジョンが見えてるようでなんだかぼんやりしているから、一度言葉にして自分の中で落とし込みたい。たとえそれが言葉にすると陳腐なものであってもかまわない。その譲れない部分があれば、混迷を極めている進路も少しは絞れてくるんじゃないかって気がなんとなくしてる。たとえ今後そのビジョンが変わってしまうようなことがあっても、そのときの等身大の自分の気持ちを大事にしていければそれでいい。

とはいったものの、やっぱり少し漠然としすぎている。どうしよう。ふらっと青春18切符で旅に行って来るのも悪くない。親友と久しぶりに会って話してみてから決めるのも悪くない。まだ就活クソヤロウに染まりきってない今このタイミングだからこそできることを最優先にやっていきたい。とにかくあとで悔いのないように今できることはしっかりやっていかないとな、と切実に感じる今日この頃だったりします。